13.10.22.春雨寺(北品川4丁目)沼田藩土岐家墓所
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2013年05月15日 19:37
●土岐美濃守――
0、定政(さだまさ)、従五位下・山城守
下総国守屋藩
1、定義(さだよし)、従五位下・山城守
下総国守谷藩 →摂津国高槻藩
2、頼行(よりゆき)、従五位下・山城守
摂津国高槻藩 →下総国相馬藩 →出羽国上山藩
3、頼殷(よりたか)、従五位下・山城守、従四位下
出羽国上山藩 →越前国野岡藩
→駿河国田中藩
4、頼稔(よりとし)、従五位下・丹後守、従四位下、侍従
駿河国田中藩 →上野国沼田藩
5、頼煕(よりおき)、従五位下・伊予守
6、定経(さだつね)、従五位下・美濃守、従四位下
7、頼寛(よりひろ)、従五位下・伊予守
8、定吉(さだよし)、従五位下・美濃守
9、定富(さだとみ)、なし
10、頼布(よりのぶ)、従五位下・山城守、美濃守
11、頼潤(よりみつ)、従五位下・山城守
12、頼功(よりかつ)、従五位下・山城守
13、頼寧(よりやす)、従五位下・伊予守
14、頼之(よりゆき)、従五位下・美濃守、山城守、和泉守
15、頼知(よりおき)、従五位下・隼人正
●土岐氏(とき)――
本姓は源氏。清和天皇祖、清和源氏のひとつ摂津源氏の流れで、美濃源氏の嫡流。
美濃国を中心に、侍所として五職家の一角を占めるなど、最盛期には美濃・尾張・伊勢3国の守護だった。
土岐氏は美濃国のみならず、常陸国、上総国など関東に点在したほか、美濃国内に多くの庶流が存在した。
戦国時代、斎藤・織田・北畠など、対立する諸大名との勢力争いに敗れて没落。戦国大名にはならなかった。
しかし、庶流に優秀な人物が数多く現れた。明智光秀・浅野長政・遠山友政・土岐定政(菅沼藤蔵)ほか、坂本龍馬・浅野内匠頭長矩・遠山金四郎景元など、みな土岐氏の血脈である。
浅野氏・明智氏・植村氏・原氏・肥田氏・土井氏・金森氏・蜂屋氏・乾氏・妻木氏・青木氏・深沢氏・饗庭氏・萩原氏等々。
(江戸時代末期まで大名として存続したのは、浅野、遠山、土岐定政家の3家。)
家紋は水色桔梗紋。白黒紋ではなく、彩色紋。
土岐光衡が戦で桔梗花を兜に挟んで戦ったのを機に家紋とした。「土岐桔梗」と呼ばれている。旗紋としては水色地に白抜きの桔梗紋が使われた。
岐阜県土岐市土岐津町、瑞浪市土岐町などゆかりの地名がある。
旧土岐郡地域の土岐市、瑞浪市、多治見市の市の花は桔梗となっている。
●土岐美濃守・土岐明智氏・土岐山城守――
●土岐定政(菅沼藤蔵)――
美濃国守護を務めた土岐氏は、徳川氏の旗本となった。
数多いる美濃土岐氏の庶流(傍流・傍系・分家)の1派――明智氏。
室町幕府下で初代となる土岐美濃守頼貞の7男 頼基が祖とだという。
戦国時代。
天文21(1552)年、土岐明智氏 頼基の子孫(経過代数不明)明智定明は、美濃国守護 土岐頼芸と斎藤道三の内紛(下剋上)にて死亡する。
その子 定政(天文20(1551)年〜慶長2(1597)年)は、外祖父の菅沼定広を頼って落ち延びる。
のち、母が奥平貞勝へ再嫁するにあたり離別させられる。
そして、母の弟 菅沼定仙の養嗣子とされ、菅沼藤蔵となる。
永禄7(1564)年、家康に招聘され家臣となる。
永禄8(1565)年、初陣。
徳川家の主要な合戦の多くに参戦、戦功をあげる。家康から武勇に優れた武将として賞賛されている。
天正10(1582)年、甲斐国巨摩郡切石に1万石を与えられて大名となる。
天正12(1584)年、小牧・長久手の戦い。
天正18(1590)年、小田原征伐。
家康の関東移封に際し、下総国相馬郡守谷に1万石を与えられる。
秀吉からもその武勇を賞賛され――
文禄2(1593)年、従五位下、山城守に叙任。また、没落した土岐の家名を大名として再興することを勧められ、姓を復する。
土岐山城守定政――
慶長2(1597)年、47歳で死去。
改めて家祖となった定政以降、代々山城守を世襲したため、「土岐山城守家」と称される。
※明智光秀は土岐明智氏の系統であり、その祖父とされる光継は、定明の父である頼明の兄 頼典と同一人物とする説がある。
※四職――
ししき。ししょく。
室町時代の武家の家格。
室町幕府の軍事指揮と京都市中の警察・徴税等を司る侍所の長官(頭人、所司)に交代で任じられた、守護大名の赤松氏・一色氏・京極氏・山名氏の4氏を指して「四職」と言う。
しかし、実際はこの4家に並んで土岐氏もしばしば侍所頭人に任じられていることから、土岐氏を含み「五職」だとする説もある。
いずれも源氏。
三管領家(細川氏・斯波氏・畠山氏)とともに、幕府宿老として中央政治に参与した。
京都の警察権を担うため、山城守護を兼ねることが多かった。
応仁の乱以降、畿内の争乱、守護の在国化等で空席となり、自然消滅した。
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