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黄昏の番犬 2016年06月21日 09:05
明智憲三郎氏著「本能寺の変 431年目の真実」を読んだ後のテメエのつぶやき収集。
16.06.13.
明智軍記は江戸期の創作。

細川家が正史として編纂した綿考輯録に収録されている明智光秀は、これを根拠にしている。

穴山梅雪は切腹。

惟任退治記は、勝者 羽柴秀吉が記させた事件報告書。

「時はいま あめが下しる 五月かな」
──ただしくは──
「時はいま あめが下なる 五月かな」

明智軍記なる軍記物は、惟任退治記が元。

信長が冷酷残忍な人間であると固定観念化させたのも秀吉。秀吉は信長を尊んでいない。

辞世の句は詠まれていない。前半生は創作。濃姫の従兄弟ではない。

「敵は本能寺にあり」は衝動的決断という意味の慣用句にされてしまっている。

軍記物=物語小説。

司馬遼太郎「国盗り物語」も明智軍記が元。

細川藤孝中間のち足利義昭足軽衆。

史料評価の高い手紙、手記でさえ政治的意図を含んでいる。虚実あり。

(行間1)

黄昏の番犬 2016年06月21日 09:06
16.06.17.
永禄11(1568)年9月上洛の時は、まだ細川藤孝の足軽衆に過ぎない。義昭が信長上洛の折に美濃へ移った時には、すでに光秀は信長の家臣であったというのが定説にされている。

永禄11(1568)年11月、細川藤孝、明智光秀、連歌師紹巴、親王、公家らと連歌を詠んだ記録がある。足軽衆に過ぎない光秀を、藤孝はどれだけ買っていたか。

フロイスは光秀のことを「賤しき歩卒」と記している。所領の分与のない(“御恩と奉公”関係のない)、金銭で雇われた者。それが足軽。

光秀の史料初出は、永禄12(1569)年1月の本圀寺合戦(京にて三好三人衆が義昭を襲撃した事件)とされているが、それよりも2ヶ月早い。

永禄13(1570)年1月には公家が挨拶に来る、幕府奉公衆に出世している。細川藤孝陪臣の身分から直臣に。さらに住居は上京に。

信長が義昭を担いで樹立した二重政権では、何事も共同統治することとなっていた。光秀は幕府方の行政官として執務を行っており、永禄12(1569)年より信長家臣らとの連署の文書が数多発行されている。

このことから信長直臣と決めるのは早計。

永禄13(1570)年1月に発行された信長の条書(五箇条からなる義昭への諫言)の宛先が朝山日乗(信長方)と光秀宛になっている。このふたりが朝廷への窓口。

永禄12(1569)年4月、義昭が本圀寺合戦の褒章として光秀を直臣に取り立て、下久世荘を与えている。しかしここは東寺の寺領で、光秀に横領されたと抗議文を幕府に発している。

東寺はこの主張を朝廷にも行なっており、この問題で朝廷と幕府に反目が生じた。 信長の諫言の一因とみられる。

そうして信長と義昭との反目には決定的な亀裂が入り、諫言を認めた永禄13(1570)年1月より3年半後、元亀4(1573)年7月、信長は義昭を京から追放した。

光秀が義昭のもとを去ったのはいつか。

先述したが、上洛の折はまだ藤孝陪臣、義昭足軽衆。

元亀2(1571)年7月、信長が側近の上野秀政と光秀へ、義昭への申し入れを依頼した書状がある。

幕府は摂津にて松永秀久・三好三人衆と合戦、小競り合いを繰り返している。 8月28日、幕臣 和田惟政討ち死。

8月18日、信長、近江へ出陣。
9月12日、比叡山焼き討ち。
このとき光秀は織田勢の一軍として参陣しており、焼き討ち後、信長は近江国志賀郡を光秀に与えたと信長公記にある。つまり主従関係にあるということ。

出陣4日前の8月14日、信長から細川藤孝へ書状が発されている。

「義昭から指示された条条を諒承し、その頭書きも熟考して光秀に申し含めた。この旨を義昭へ」(テメエ解読m(_ _)m)とある。これは光秀がこの時点で信長方へ移り、義昭から光秀へ何かしらの要求があったと見られる。

幕府の摂津攻め、信長の比叡山攻めに、幕臣だった光秀だけが信長方に参陣した理由が、何かしらの経緯が、義昭との関係に何かが、あったと見える。

光秀が義昭側近 曾我助乗に宛てた年月日不詳の書状がある。「行く末成り難い身上につき直ちに暇をもらいたいので義昭にとりなしてくれ」と。これは辞表だろう。

光秀は対信長、対松永・三好勢、あるいは朝廷とのやり取りにおいて、不満を抱いた義昭から叱責でも受けたのだろうか。惟政の討ち死のことやら…。

光秀は前半生において、近江国坂本や比叡山と何かしらの関係があったのではないかとも考察されている。

12月10日付で朝廷が信長へ宛てた綸旨で、門跡領返還が命じられている。これは志賀郡に含まれていたということ。東寺のときと同じ。されどこれから分かるのは、朝廷が光秀は信長の家臣であると知覚していること。

応仁の乱発端のころ。戦国時代と後世が呼ぶ時世。「領地は切り取り次第」などと馬鹿なことを言った馬鹿がいたばかりに、寺社の荘園も武士に奪われる世の中になっていた。

光秀が信長に仕えたのは元亀2(1571)年。比叡山焼き討ち直後ではないか。

細川藤孝が義昭を見限って下ったのは元亀4(1573)年3月。旧幕臣で信長家臣となった武将は光秀が一番最初で、それが織田家での地位を決めた。義昭追放後に織田家へ仕官した多くが光秀家臣となっている。

本能寺の変の動機のひとつに、足利幕府再興説があるが、これは有り得ないだろう。

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